後ろを絶対振り向かないで

Onの先に何が見えるか考えていきたい【すと/きんき】

どこにもいけない

 

 

 

まだ光一くんのソロコン感想が書けていないのですが、どうしても思考の整理として文字にしたかったことがあってそれを書きます。

普段ジェシーと光一くんについて沸いているおたくですが、ちょっとそれとはずれた個人的な暗めお話です。

結構ぐちゃぐちゃしています。だめだと思われた方はブラウザバックしてくださいね。

 

 

 

 

   *

 

 

 

 

 

「死にたい」とはじめて思ったのはいつだろうか。

 

生きることは普通に楽しい。生きていればそれなりに楽しいことたくさんある。

それこそ、ジェシーとハイタッチできたのも、光一くんのステージを見られたことも、全てきているからである。

小学校は勉強も遊びも楽しかった。中学校も結構授業が楽しかった。高校は部活動を頑張った。毎日3時間ぐらいは楽譜と音に向き合っていたと思う。大学は看護で大変だったけれど得たものは大きかった。今は、なりたかった職業に一応就くことができて優しい職場の人たちに囲まれながらなんとかやっている。本当に運と人に恵まれている。

 

私のTwitterを見てもらうと察しの良い方はご存じだとは思うが、結構ネガティブな人間である。

(根からポジティブという人はそうそういないとは思うけれど)

外向きと中身、どちらも本当の私だと思うけれど、結構温度差がある。

結構明るく元気に振る舞うのは得意だ。具合が悪いのに結構元気に見せることは得意。

しかも元気に振る舞っている間、割と本気で元気だと当の本人は勘違いしている。その瞬間はマジで元気な分、割と「大丈夫な子」認定されやすい。心配していただいて声をかけてもらっても元気に返事をしてしまうから、相手はきっと拍子抜けしている部分があるのではないかとも思う。

本当はひとつも大丈夫じゃないくせに。

けれど、見栄っ張り。強くありたい。強い女性でありたい。だってそっちの方がかっこいい。

だから我慢してみる。大丈夫です!!と言ってみる。甘えたくない。

まあ、甘え方がわからないというのも多分にあるのだと思う。長女だし。

そして盛大なキャパオーバーを引き起こして大惨事。迷惑なやつである。

社会人になってからは、人前で泣いていないだけマシにはなったと思うが。

 

 

なにがきっかけで「死にたい」と明確に思ったのか思い出せないが、たしか中1の冬くらいからやたら鬱傾向にあったと思う。鬱傾向と呼んでいいのかはわからない。

とにかく暗かった。気落ちしていた。

何度も包丁と向き合ったことがある。包丁の柄を握って、この刃を首に、腹に当てたら、と思った。リスカも考えた。けれど痛そうだったからやめた。すぐもとの場所へ置いた。痛いのはきらい。怒られるのもきらい。単純に自分が死にたい気持ちより刃物の痛みの方が怖かった。勇気を出せないことに対しては、どちらかというと「まぁ、これでいいんだよな」という気持ちもあった。

だけれど、どうしてもだめで一回未遂をしたことがある。

親がいない日曜日の昼下がりのことだった。

いすを踏み台にして、マフラーを柱にかけて首を吊ろうとした。

なぜマフラーだったかといえば、長さがあるひも状のものがそれしかなかったからある。だから近くにあったマフラーを手にした。でも、そのマフラーは、ピアノの先生からもらったものだった。「さすがに自分があげたもので首吊ってたなんて知ったら先生嫌だろうな」と思い、やめた。

きっとやめて正解であったとは思う。

 

未遂をして変わったことは何もなかった。気持ちが晴れるわけでもなく、罪悪感と苦しみが少しずつ積み重なって溜まっていくのを感じた。

中2の初夏、また、どうしてもだめになった。特に部活が苦しかった、と感じていた。もう無理だと思った。

「部活をやめたい、死んでしまいたい、死にたい」

初めて担任に泣きながら訴えた。

レギュラーになれない部活をやめてしまいたいと訴えたが、今思えば部活は些末なことできっと何かから逃げたかったのだと思う。一番逃げられそうだったのが、部活動だと思っていたのではないかと思う。

結局話を聞いてもらうだけで終わった。部活はやめなかった。どんな話をしたか全く覚えていない。さすがに寸前までいった中1のあの日の話はとてもじゃないができなかった。けれど、話を聞いてもらい、「おまえ、母ちゃんが、悲しむだろうが」と放送室兼生徒指導室で声をかけられたのは今でも覚えている。

その一言が今でも企図を引き留める言葉の一つではある。

 

 

   *

 

 

本当に物理的に死にそうだったのは、病気が発覚したときのこと。

 

私には血液疾患がある。血小板が少ないから血が止まりにくい病気。

もう16年目に突入した。人生の半分以上をこの病気と共に過ごしている。

まあそうは言っても、私の場合症状がかなり軽いらしく、現時点で血小板は8万あるのでもはや病気というより体質みたいな感覚に近い。とても恵まれている。

小学2年生のとき、やたら青あざをつくっていた。気づかないうちに自分の知らないあざが増えていった。母や祖母には自分でぶつかったことも覚えられないのかとよく言われていた。こんな書き方をすると私の家族はすごく冷たい人みたいになってしまうが、そんなことはなく、愛情深く私をここまで大切に育ててきてくれた大切で愉快な人たちである。それに、医療者が身近にいないわが家では娘が病気であるなんて想像つかなかった。)

ある日風邪気味だった妹をみて保育園の先生が必ず医者に行ってほしいと言っていたためしぶしぶ近くの病院に行ったら、私の病気が見つかった。

びっくりである。

祖父母宅で妹の受診を待つという選択肢があったのにもかかわらず、あの日はなぜか一緒に行ったのだ。いつもなら祖父母の家で待っているにもかかわらずそうではなかった。そして病院についてからも待合スペースで待つという選択肢があったにもかかわらず、診察室までついていった。

紫斑がある私の両腕を見て、医者はすぐピンと来たらしい。

しかも少し涼しい日であり長袖を着てもいい日だったが、半袖でいたのだ。

その日は妹の診療というより私の診察が始まってしまった。紹介状を出され近くの大きな病院に行くことになり、緊急入院となった。

入院前の1週間前に鼻血が3時間止まらなかった。3時間止まる気配なく出続けていたから、むしろどのタイミングで止まったんだろうと今でも疑問に思う。入院時の私の血小板の数値は5000ほどで、もし放置をしていたら1000を切り、きっと脳出血とか起こしていた可能性が大いにある。小学2年生、よく転ぶし、ぶつけるし、でただでさえけがするのに血が止まらないと来たらそりゃあ、ね。

発見があと少しでも遅れたら…と思うとゾッとする。

 

本当に運に生かされている。

 

 

   *

 

『あなたの命はママの命とおなじ』

ミュージカル「夢から醒めた夢」を見た時に印象に残っているセリフのひとつ。

 

病気といつも一緒にいたので、いのちの重さはわかっているつもりだ。

つもり、だから本当の意味ではわかっていないような気もする。

私が入院していた病棟ではなんどもピーと命が止まったかもしれないアラーム音を何度も聞いた。病院に定期受診行くたびに車椅子の子どもを見かけた。

血小板が少ない以外元気な私と、そうではなくおそらく今日をせいいっぱい生きている子。

年を重ね、ほぼ元気に成長していく私を他の患児の親は何とも言えない目で見てくるのも知っている。

こんな病状が軽い私ですら、寛解の割合を見たときにがっくりきた。一生一緒に生きていくつもりだったけど、寛解しないかもしれないということがこれほど堪えるのかとへこんだことがある。そもそも完治しないってなんだ、寛解ってなんだ。別に日常生活を送る上で特に大きな問題ではないから、良いのだけど。

闘病記を読むと何とも言えない気持ちになる。自分も患者であったから患者の気持ちはなんとなくわかるのだ。これはきっと病気をしたことがない人には絶対に分からない。梅干しを食べたことが分からない人が、梅干しがすっぱいことをわからないように。だからってがん患者の気持ちは私にはわからないけれど。私がきっともっと重い病気だったら打ちのめされている。母は私の前で絶対に泣かなかったが、泣いていたのを知っている。忙しい仕事の合間を縫って昼休みに私の見舞いに笑顔で来ていた。その裏側で何度も自分を責めていたのだろう。どの親もそうだと思うが、色々葛藤しながら私を育ててくれた。しつけも含めて一生懸命接してくれた。病院に行くのだって結構手間だと思う。安くない医療費、休みを取る手間。働いてから分かる家族の苦労と学校側の配慮。たくさんの大人と友人のおかけでここまで生きてこられた。だからといってはなんだが、患児の親の気持ちを考えるだけで涙が出る。かわいそうだなんて絶対に同情したくない。けれど、何とも言えない気持ちになる。

 

きっと私はしあわせなのだろう。

ほぼ普通の人と同じ生活ができている。高確率で明日が来る。

 

私が小学生の頃、自殺のニュースを見た時に、母は言った。

「あなたは命の重さを誰よりもわかっている。だから」

自分を自ら傷つけるようなことはきっとしないはずだ、

 

ああ、そうだとも。そうでありたいとも。

 

きっと私は自殺しない。

 

 

   *

 

 

大学受験、センターで大コケした。

生理周期が重なったらこけてしまうくらい、努力が単純に足りなかった。

行きたかった大学には行けなかった。苦しかった。

高校の時も月一ぐらいに希死念慮は感じていた。どこにもいけない苦しさがあった。

大学生になったら、希死念慮がすぐそばに来るようになった。

看護は苦しかった。だって向いていないんだもの。アセスメント?なにそれおいしいの。みんなアセスメントしっかりできるのに、わたしはできない。書けない。関連図も書けない。実技も手順が全然覚えられない。養護教諭になるにあたって絶対に看護師の資格がほしかった。看護学を学んだ上で養護教諭になりたかったから、自分のやりたい学問はやっていた。けれど看護師に一つもなる気がない人間が行くにはつらすぎた。

ここで一つ言いたいのが、看護師も養護教諭もどちらも社会において大切な職業であり、欠くことは出来ないということである。私がやりたいのが養護教諭なだけで。看護師さんになる方は本当にすごいと思う。私にはできない。私は看護師さんのやさしさに入院生活救われてきた部分があるから、本当に素敵な職業だと思う。

実習は本当にきつかった。私は恵まれている方で、受け持ち患者さんも、指導者さんも、グループメンバーも、担当教員もなにもかも恵まれていた。大切な思い出ではあるし、得たものは大きかったけれど、きつかった。

看護課程と一緒に教職課程を取ることは本当にきつかった。馬鹿じゃないの?ってよくわからないなにかに八つ当たりしたくなるくらいきつかった。みんなが帰ってもまだ授業はあって、毎日夜8時ぐらいまで授業をするなんてほんと、大学生きつかった。大学生ってもっと遊べるものなんじゃないの(笑)

インスタで、Twitterで楽しそうな大学生の知り合い見るたびにいいなあって思っていた。今も大学の時の思い出を知り合いから聞くたびにそんな思い出がない自分に少し劣等感を感じる。

 

けれど、定期受診にいくたびに、大学で映像を見るたびに、闘病記を読むたびに、実習に行くたびに、命があるからこそこれらはできるのだと振り返る。私がきついと感じていることは夢を実現するために必要であると私自身感じていることだから、絶対に成し遂げたいことなのだ。未来があるからこそできること。

 

 

ときどき、あの患者さんは生きているだろうかと考える。もらった花束の写真、もらった手紙を見返すたびに実習の時に自分の無力さを思い出す。死が近いってどういうことなんだろう、死ぬかもしれないってなに、余命を超えているってなに、悔いが残らないようにってなに。いつも笑顔でいた患者さんが集中治療室で「やりたいことがあったのに」「まだ娘が中学生で」と涙を思わずこぼしながらお話してくれた。その想いに、命の重さと高確率で未来があることのありがたさを感じたことを思い出す。

 

 

  *

 

 

さて、ここまでこんな風に話していると、きっと「命は大事だ、自ら命を絶つことなんてしない!」と考えている側の人間に思われているかもしれない(笑)

そんなことない。まったく。

やっと今回話したい本題まで来られた。長いな。

 

これだけ命の重さに触れる機会がありながら、死にたいと思う。

これだけ、高確率で明日が来ることにありがたみを感じる機会があっても、希死念慮は変わらない。

色々な人から怒られそうだな。

 

 

今年の2月、光一くんの舞台を映画で観た。とても感動した。

本当に感動して、久々に生きていてよかったと思った。

 

「光一くんは私たちに何を伝えたかったんだろう」「私にとってShow Must Go Onってなんだろう」って考えた時に、チャップリンの「人生は近くで見ると悲劇だが、遠くから見れば喜劇だ」という名言を思い出して、月並みではあるけれど私の人生もショーであって、決して私が自分の人生を投げ出したり諦めたりしてはいけないなと改めて考えさせられました。 生きることをやめたくなることがここ数年多かったけど、それってとっても勿体無いことだったのかもしれないな、と。そう思うこと自体は間違っていないと思うけど、でもせっかく生きているのだから、楽しく生きた方が絶対にいいなって思いました。 コウイチは「走り続けなければならない」「立ち止まれない」「Onの先に何が見えるのか」と繰り返し言っていたけれど、あれはどういうことなんだろうって考えると、私にとっては「考え続けなければならない」「思考をやめてはいけない」ということなのかなあと。 たしかにコウイチは周りが見えていなかった部分もあったし、本当に常に走っていたので、休むことも立ち止まることも冷静さも必要だなとは第三者から見て思わなくはないけど、「前に進むことそのものを放棄してはいけない」「学び続けることをやめてはいけない」と感じました。 「生きるとはどういうことか」「私はどんな風に生きたいか」、人生観を改めて見直す機会になりました。 私は4月から学校の先生やる予定なので、「先生」としてどうあるかというのをこの4年間考えて生きてきたけれど、まず「私」も大事にしていきたいですね。 やらなくてはいけないことがたくさんあるけれども、どんなことも楽しく色んなことにこれからもチャレンジしたい。 「生きていてよかった!!」って改めて思ったのは久々かもしれないなあ。

「Endless SHOCK」を映画で初体験してきた感想 - 後ろを絶対振り向かないで

 

こんな風に2月の私は感じていた。これで生きていけたらよかったのに。

 

いつも「アハハ~オタク生きる~~~!!!」みたいなテンションでいるのに、内側はずっと死にたがり。こんな私知っている人あんまりいないと思う。まあ、そうそう言えるものでもないか。誰しもきっと死にたいと願うことは当たり前の感情ではあると思う。そして軽い気持ちでテストがつらいことを死にてえ~~という言葉で何度も表す。推しが素晴らしくてよく死んでいるし。そこはもう行間だよね。

 

大学生のときは何度も、いやほぼ毎日、生きたくなかった。毎日消えたかった。

自殺は残された人がつらいから、私の存在ごと一発ぽちっとドラッグからのデリートできたらいいのにってずっと思っていた。

中学の時からずっと死にたいと思っていた。さすがに企図から寸前まではいったのはあのときだけ。

 

大学のときに実行しないことを前提に、電車に飛び込むことへのリスク、練炭の値段と方法、東尋坊への行き方をよく調べた。フロイトの代償に当たるかなと思って。

ガードレールに突っ込んでしまったときもそのままいってしまえばよかったのに後からと思った。

賠償金がネックだが、コスパが良いのは電車への飛び込みなのも知っている。大学時代は黄色い線を少し踏み出したことが何度もある。でも踏み出したら怖くて飛び込めなかった。でも、できなくて正解なのも分かっている。

というかそもそも人に迷惑かけるのはよくない。

飛び込んでしまった方はそれすら考えられないくらい追い詰められていたのだろうから死んでもなお責めるようなことはしたくないけれど。

それにどうせ、私のこの「死にたい」という感情はどこにも行けない、閉塞感、未来への漠然とした不安、逃げから来るものだというのは分かっている。本当に死にたいわけではないんだろう。

私なんてこの世からいなくなればいいなんて、価値がないなんてこれっっっぽっちも思わない。

「Q.自分は大切な存在か?」と聞かれたらYESであると答えられると思う。いなくなったら困る人それなりにいると思う。きっとね。きっと。

ありがたいことに、私は家族に大切に愛されて育ってきた。先生方にも友人にも恵まれ、習い事でも先生や仲間に恵まれている。就職して上司にも同僚にも恵まれている。本当に大切にされている。きっと死んだら悲しむ人がいると思う。家族が悲しむのでそれはしない。

 

そう、する気はない。

中学の時の自殺願望から希死念慮に移行して、ずっと、ただそれがいるだけ。

 

きっと今、不安定なのも、エリクソンの発達課題「孤独」対「親密」が達成されていないから。これはすぐ解決できることじゃないから別に人生を謳歌する中でいつか達成できればいいだけ。合っているかはかなり微妙だけど、私はそのように捉えている。こんな結論、大学3年で出ている。

 

今をとりあえず生きていくだけ。それが正解なのだと思う。

 

ずっと真綿で首を締められるような感覚。海に沈められていくような感覚。くるしい。

 

「死にたい」「消えたい」という気持ちを持つこと自体は悪だとは思わないから。それを否定するのは違うと思うし、普通のことだと私は考える。そしてそこから脱却したいと思うのも普通だと思う。でも、それを抱えるのは疲れた。

 

なにかご褒美を用意して過ごすってとても有効な手段で私もよく推し関連で良いことが決まるたびに「生きる~~~!!!!」と言ってきた。

半分本音で半分嘘。全然生きられない。

そんな最短1か月先のことをぶらさげて目の前を走るなんてできない。

3日後にライブがあったら、まあライブあるし、となれるけれども。

たまに忘れるためにアホみたいに物を買うときがある。ものに依存したくないのに。せっかくの給料無駄に使っている。金に余裕がないことは精神的に来る要因でもあることを知りながら。

酒はネガティブなときには飲まないようにしている。依存症になりそうだから。逃げるために飲んだことあるけれどびっくりするくらいお酒が進まなかったから向いてない気もしている。

たばこも吸ってみたい。逃げられるような気がするから。でも体にはよくないし吸う勇気もなくて手を出せないでいる。それでいいとも思っている。

 

最近ひさしぶりにとある闘病ブログを読んだ。最近ブログ更新されないなと思っていたら亡くなっていたことをTwitterで知った。びっくりした。たしかにブログで奇跡が起きなければ死ぬような手術をするとは見た。その方の記録のすべてを読めていないから、その方を語るにはあまりにも知らなさ過ぎて失礼にあたるのであまり言えないが、でも私はその方がこの先の未来も生きていると勝手に信じていた。この発言自体が失礼なのかもしれない。かなりショックを受けた。きっとこの人は生きたかったはずだ。だれだ、命の重さを理解しているとのたまったのは。わたしは、これを読んでもなお、それでも死にたいのか。死にたいと簡単に口に出しても良いのか。

 

 

  *

 

 

「くるしい」「あしたがこないでほしい」「きえたい」「じぶんがいや」

頭に過るたびに希死念慮は顔を出す。でもこんなことを思うのはいやだ。

楽しく生きたい。

 

こんなループが誕生して10年。

 

この思いはどこにもいかない。どこにもやれない。どこにもいけない。

 

そろそろ疲れた。一人でずっと抱えるには疲れた。

 

そもそも自分が嫌なら変えればいいのだ。

容姿が嫌いならダイエットなりメイクなり頑張ればいいのだ。

恋人がほしいならなんとしてでも出会いを探せばいいのだ。

仕事でどうしてもやりたいことがあるなら勉強を頑張ればいいのだ。

手段はいくらでもあるのに、怠けているのは誰だ。行動を起こせばいいのに、それをしない。でも休みの日に、家に帰ってきてから頑張れない。

じゃあそれは本気で変えようとは思ってないのねってこと?いろいろな方の人生に触れて、君は本気で動かないくせに変われない自分を嘆くの?それは違うんじゃないか?

もう一人の自分が正論を言う。

 

ちがう、そうじゃない。合ってはいるけれど。そうじゃない。

自分のことがだいすきで、だいきらい。

 

頑張っていると思う。でも手も抜いている。本質を見失いがちだ。

みんな私のこと頑張っているねって言ってくれる。

頑張っているふりは得意なの。そう、得意。それっぽい感じで割と乗り切ってきた。

だから、本当に頑張っているのか、本当はどう思っているのか、わからない。

 

こんな自分、だいきらい。

 

30歳になって独りだったら死んじゃおうかと思った。1日目はやりたいことやるなら今しかない!って一生懸命生きられた。7年後には死んでいるって思ったら有意義に過ごさなくてはってなれた。でも2日目。ふとした瞬間にむなしすぎて泣いてしまった。何が悲しくて私はこんなことをしているのかって。どうせ7年後も生きていたら、自ら死ぬことはしないだろうに。

 

こんなこと本当に明日を生きたいひとが知ったら。

私はおとなになってもこんなことを考えているのか。

みんな思うよって思われるのかなあ。じゃあ、みんな、毎日3割ぐらいの時間は死にたいと思うのが通常なの。別に毎日それなりに楽しいことはあるから、今すぐ旅立ちしなくてもいいかなとは思うけど。それに、人の苦しみというのは人それぞれだから、私の物差しで誰かの苦しみをはかれないように私の苦しみも私のものであって、誰かの物差しではかれるわけではないのだ。

 

7月どうしてもつらかったとき、草枕の冒頭が出てきた。『山路を登りながら、こう考えた。』というあれである。

 

山路やまみちを登りながら、こう考えた。
 に働けばかどが立つ。じょうさおさせば流される。意地をとおせば窮屈きゅうくつだ。とかくに人の世は住みにくい。
 住みにくさがこうじると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいとさとった時、詩が生れて、が出来る。
 人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りょうどなりにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
 越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容くつろげて、つかの命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命がくだる。あらゆる芸術の士は人の世を長閑のどかにし、人の心を豊かにするがゆえたっとい。
  夏目漱石 草枕

 

 泣いてしまった。そうだ、人の世でないと人は生きられない。それはそう。だから私は一生懸命生きるしかない。

学校で習ったものってこんな活用の仕方もあるんだね。

 

 

本当に私、人にも運にも恵まれてここまできた。

きっとあの日、病気が見つからなければ私は死んでいた。

小1のとき目の前で友だちが飛び出して交通事故に遭った。自動車の信号が黄色になったのを見て歩行者の信号がもうすぐ青になるからと飛び出した。たまたま飛び出したのが友だちで、少しそのタイミングが速かった。もしかしたら私だったかもしれない。小2のときだって偶然に救われた。運に生かされているんだと思う。奇跡すぎやしないか。

だがそれを私は放棄したいのだ。

そういうことを私は言っているのだと思う。

 

King GnuのThe holeという曲がすごく優しくて好き。

わたしも傷口になってくれるひとがほしいよ。大丈夫だよって抱きしめてくれるひとがほしい。肯定して、がんばったねって頭を撫でてくれるひとがほしい。

まあ、一人でも生きていけそうってよく言われるから、生きていけるんだろうけれど。

 

 

ねえ、どうやったら生きるの楽しいの。

どこか遠くへ行きたい。

同僚兼友人に「東尋坊に行きたい」と話した。今まで書いたようなことの大筋を話したあとだった。はじめて誰かに話した。東尋坊行きは、ちゃんと、飛び込むためじゃなくて、フロイトの代償として見に行くだけだと話した。半分本当で、半分は嘘だった。もうこのループで生きていくのに疲れたのだ。勢いがつけばそのまま崖の下へ吸い込まれてみても良いかと思った。きっと勢いなんてないと思うし。でも同僚は「行ってもいいけど、絶対ついていく。絶対に連れて帰る」と返してくれた。やさしかった。そのやさしさがまぶしかった。

すぐは行けないけれど、いつか誰かと行ってみたいと思う。そうしたら何か変わるかもしれない。

 

 

死にたい、死にたくてたまらない。けれど自殺志願者ではない。

そんな勇気はない。死にたくてたまらないくせに、企図する勇気はない。

まあ、そんな勇気持たない方が良いと思うけれど。

遅かれ早かれ人は死ぬのだ。別にわざわざ自分を殺す必要なんてない。

そのくらいの理性は生きている。

けれど、つい、ふとした瞬間にやってくる。

夢中になれるものがその瞬間にあれば、全く感じずに済むけれど、ふとした瞬間に隣にいる。

顔を出したらなかなかお帰りにならない。

絶対に自分の人生、自分が主役だから楽しまなきゃ損!楽しもう!って思えたらどんなにいいだろう。

そもそも、自分がそう思う子どもの話を聞いて受け止める側なのに、自分がそれってどうなの。

きっとなんだかんだいってそれなりに楽しく生きているんじゃないかなって思う。

けれど、今この瞬間乗り越えるのがつらい。今日、今この苦しみを抱えるのがつらすぎるのに明日とか未来とか待てないってなる。

 

 

 

 

 

書いていてそろそろオチに困り始めました(笑)

好き勝手書いてどこに向かうのかわからなくなっちゃった。

でも、結局、今しか生きられないのだと思う。

苦しかろうが今しか生きられないのなら、その苦しみを認めてそれごと自分を愛せたらいいのにね。

うまくいかないね。

痛みに鈍感になりたいね。

おおむね楽しいって言いたい。

楽しく生きたい。

 

 

 

 

そろそろ2学期が始まります。悔いのないよう頑張ります。

ちゃんと明日も生きるよ。